箱根駅伝の名物監督の名言と熱血指導や気になるエピソードも!

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2016年92回箱根駅伝は青山学院大学が
1区~10区すべての区間を1位の完全優勝、
2位は東洋大学で3位は駒澤大学でした。
青山学院大学の全区間1位の完全優勝は
39年ぶりだそうです。

調べてみるとどこの大学も名物監督が
采配をふるっていて、今回はそんな
名物監督の中でも特に熱い駒澤大学の
大八木弘明監督と今は亡き早稲田大学の
中村清監督を取り上げてみました。

最後まで楽しんで頂けたら嬉しいです。

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駒澤大学監督・大八木弘明
のプロフィール

大八木 弘明(おおやぎ ひろあき)

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生年月日:1958年7月30日

出身地:福島県河沼郡河東町(現・福島県会津若松市河東町)

高校:福島県立会津工業高等学校

大学:駒澤大学経済学部2部(夜間部)

大八木 弘明監督の会津高田一中学時代は
ジュニア選手権3000mにて全国5位の
(9分09秒6)実績がありますが、高校では
走りすぎによる疲労骨折と貧血に
苦しめられる3年間でした。

また、家庭の事情により大学進学も諦め、
高校卒業後は小森印刷に就職して
実業団駅伝で活躍しています。その後、
川崎市役所に勤務し、24歳で
駒大経済学部2部(夜間部)に入学。

大学卒業後は、ヤクルトを経て1995年に
駒大陸上部コーチに。2002年に助監督、
そして2004年に監督に就任しています。

熱血大八木 弘明監督はグラウンド外での
走り込みの練習では軽トラックに乗って
選手の後方からついて行きスピーカー片手
に大声で怒鳴るそうでその声はまるで
右翼団体の街宣車が来たか、
競馬場と間違う程だそうです。

第79回箱根駅伝で9区を走った駒澤大の
島村清孝選手は前日、極度の腹痛と下痢に
悩まされていましたが、先頭を行く
山梨学院大学のランナーの後姿を

とらえたとき、大八木監督が監督車から
スピーカーで怒鳴った直後
島村清孝選手は一気に加速して、
あっという間に山梨学院大学を
抜き去ってしまいました。

後で島村清孝選手はインタビューで
「監督車から大八木助監督の声が
聞こえたとき、反射的に身体が動いた」
と語っています。

しかし、素人の私が思うには、限界に
挑んでいるアスリートが監督の一声で
いとも簡単に体が動くものでしょうか?
不思議ですね。

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大八木監督が駒澤大コーチに就任して
最初に行った改革は、食生活と選手の
意識改革で、大八木監督の奥さんを選手の
学生寮に呼び、選手たちのためになんと
朝・昼・晩の三食の食事を
作らせたそうです。

そこまでされたら食べ盛りの選手は
嬉しくて少々の無理は聞きますよね。

また、徹底的な生活管理を行って選手の
意識改革を促した結果、選手の競技に
対する意識は劇的に変わり、
その後の駒澤大を快進撃に
導くことになります。

大八木監督を取り上げた記事には

がむしゃらに距離を走る練習を繰り返す過去とは異なり
現在は科学的なトレーニングが発達している。
精神論は「古い」とも思われがちだが、それを否定する。

 「科学的トレーニングは、スタートするまでに準備しておくものであって、
レースが始まってしまえば関係がなくなる。そこで、勝負を左右するのは精神。
心を奮い立たせることができるのは、言葉なんです。
人を動かすのは、情熱と本気
口先で指導するのと、体全体を使うのでは、伝わり方が全く違う。
子供たちは、しっかり見ています。私も全力で接しているから、
反応してくれているんだと思いますね」

(スポーツ報知参照)

 

大八木監督の名言は?

さて気になる大八木監督の名言ですが
第84回箱根駅伝では、5区山上り、
6区山下りを走った安西秀幸・藤井輝に
「男だろ!」と鼓舞しています。

「男だろ!」の言葉は大八木監督も
選手時代に監督の励ましの言葉に
“救われた”という経験があり
自然と口を開かせるようです。

「自分が覚えているのは、1年(の5区)で山を上った時(84年)のこと。
当時は、小涌園辺りから監督車(現在は運営管理車)が
前に出ることができたんです。
それで、森本(葵)監督が後ろを向いて
『来いよ、来いよ、車にくっつくまで迫って来いよ!』と声を掛けてくる。
それに励まされました。

(スポーツ報知参照)

大八木監督の名言の裏には
自分自身が熱く励まされた理由が
あったんですね。

早稲田大学監督・中村 清の
名言とエピソード

中村 清(なかむら きよし)
1913年6月1日 – 1985年5月25日

早稲田大学の現在の監督は
相楽豊監督ですが
中村 清監督は瀬古利彦さんらを育てた
早稲田大学の名物監督です。

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中村 清監督は戦後の1946年に母校での
早稲田大学競走部の監督に就任しています。
そしてその収入のほとんどを選手育成に
つぎ込み、食糧難の時代にも選手達には
すき焼きやハムといった贅沢な
食事を与えたそうです。

後に映画監督になった篠田正浩を指導して、
東京箱根間往復大学駅伝競走で
2区に起用したこともあります。

 

その指導方法は独特で、選手を長時間
戸外に立たせたまま、陸上とは直接関係の
ない仏教キリスト教などを引用した
講話をすることも多くあったそうです。

ひと昔前とはいえ選手達から批判の声は
なかったのでしょうか?
他人事ながら気になりますね。

中村 清監督の口癖は、

若くして流さぬ汗は、年老いて涙となる

朝に新しく生まれ、
夜は明日の復活を信じて床に就く、
一日一日が命のやり取りだ。

一日一生(いちじついっしょう)」

天才は有限、努力は無限

真鍮は真鍮、磨いても金にはなりません

 

1954年の箱根駅伝で早稲田大学が
戦後初の総合優勝を飾った時、
最終10区を走った昼田哲士選手が意識朦朧
の状態で走っていて

中村監督は伴走車から降り、早稲田の校歌
都の西北』を歌い昼田選手を
励まし、一緒に走り、 そして

昼田選手は気力を振り絞ってゴールに
飛び込み、早稲田大学の優勝を決めました

その後、中村監督は『都の西北』を
歌うようになるんですが、
ねぎらいと餞別の意味を込めて、
大学卒業後は競技から離れる4年生に対して

だけで、実業団(ヱスビー食品)で競技を
続けることになっていた瀬古利彦選手は
伴走車の中村監督から『都の西北』を
歌ってもらってないそうです。

 

1976年に中村監督が早稲田大学に
監督として復帰したときには、
名門・早稲田復活への並々ならぬ
意欲を物語るとんでもない話が
伝えられています。

再就任した際、中村監督は部員達に対し
「こんなに弱い早稲田にしてしまって
OBの一人として申し訳ない。俺が謝る」
と言いだし、自分の顔を何発も殴って
部員たちに熱意が本物であることを
感じ取らせようとしたそうです。

体育会系の人はする事が熱いですね。
さらに

「諸君はこの土を食べれば世界一になれる
というなら、食べるか。私は食べる」と、
即、足下の野草の付いた土をつかんで
食べてしまった。

選手全員に強制的にスポーツ刈りを
命じたが、部員たちに解ってもらえずに
苛立ちから地団駄を踏みすぎて、
足を骨折してしまった。

などは熱いを通り越して中村監督の
身内の方には失礼ですが
笑えますよね。

しかし熱い思いの中に笑いがあるから
若い選手がついてくるんでしょう。

 

最後に”男だろ!”の
駒沢大学・大八木 弘明監督の
気になる言葉がありましたので
それを紹介して終わりにしたいと思います

「1学年で10人くらいが(陸上部に)入るんですが、
半分くらいは卒業したら選手生活を終えて一般企業に就職していく。
その子供たちに言っているのが
『そこに自分の夢があるのか。それを考えて、職種を選んで働きなさい』
との言葉。あとは『決めたら簡単に辞めるんじゃないぞ』とも言いますね」

(スポーツ報知参照)

 

最後まで読んで頂いて
ありがとうございます。
よろしかったらこちらの記事もどうぞ。

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